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カトリックとプロテスタント【赤坂コーチング 西村まゆみ】 [映像]

(2016日)

「カトリックとプロテスタント」いうタイトルでしたが、
内容は、さらっとしたものです。

"苫米地式美人コーチ"と、私は初耳だったのですが、
さすがコーチングの先生のようで、生々しいお話はされませんでした。


公式ホームページに行きましたが、

「苫米地との関係は切っておりますし、苫米地本人からも切られております。」

とのことでした。

何だったのでしょう。





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こころの時代~宗教・人生~ 「終わりなき“平和への巡礼”」 [映像]

(2019日)

インタビュアーの鈴木健次氏は84歳で、どうしても植松誠氏に取材したかったのでしょう。
日本聖公会首座主教の植松氏が、世界宗教者平和会議日本委員会理事長となられたそうだ。

植松氏が留学先の教会での信徒代表の男性が日本軍に捕虜となったことがあり、
そのことを信徒は皆知っており、歓迎されず通い続ける話で、
最後は教会での結婚となるが、頭の痛い教会生活をされていた。

“和解”というのも簡単ではないというお話でした。
「敵を愛す」「何度も許す」と他人は聖句を印籠にして簡単に説教しがちだが、
そんな生易しいものではない。

和解は一生かけて歩み続けるもの、深い言葉です。

「綺麗事が教会にある」と認められ可能な限り本音で語られていたお話でした。

kokoro.jpg
NHKオンデマンド こころの時代~宗教・人生~ 「終わりなき“平和への巡礼”」

----memo


聖公会 首座主教 北海道
植松 WCRP 理事長 201809就任

居心地いい 楽しい
多くの宗教者 命を大事にする

シーア派スンニ派両派招いて
 
極寒の地で大自然な中で 
 ちっぽけな存在として 教えてもらう

牧師の子

綺麗事が教会にある 敵を愛せなど

大学は音楽を学んだ 音響 補聴器
  聴覚障害 言語障害 リハビリ
アメリカ留学 教会いっても歓迎されなかった
 日本兵に虐待された信徒代表だった

妻の親役をしてくれた
式の日 戦争が終わった 30数年

彼は整理したかった 信仰と合わせて

そこから和解 聖職者になろうと
 離れたかったが

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パプアニューギニア 戦時 聖公会宣教師を殺した

和解はそんな簡単なものじゃない
 和解は一生かけて歩み続けるもの 

到達点に達したら出発点

日韓の解決
 口先の謝罪は謝罪ではない

 信仰はアクセサリーでなく

3.1 共同祈り 
 聖公会は当時宣教師を送っていたが  
朝鮮人でなく日本人向け

韓国の聖公会とは公式な交流はしばらくなかった
青年の交流30年間
 交流で現実を学んでいく

パレスチナ 聖地巡礼
 石だけ見てると言われ 人に

生きた人と顔を合わせて 
 
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音声で聴く 「キング牧師の名言」20話 [映像]

(2014日)

何回か部分的に聞いたことはありましたが、
改めて、静かな環境で目を瞑って聴きました。


地獄の一番熱い所を用意されているのは、中立を言う者たちとか、
結局、敵の言葉よりも、覚えているのは、友人の沈黙、


言葉は違いますが、そういうことですね。

「炎の名言集」でした。



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日本人とキリスト教「和訳聖書の歴史」ナレーション入り [映像]

(2017日)

まず、ドイツ宣教師カール・ギュツラフの試みが説明される。
その後、ヘボンの生涯が語られた。

敬愛の方でした。

奥野昌綱の貢献も素晴らしかった。

短くコンパクトにまとめられています。



----memo

カール・ギュツラフ

ドイツ宣教師 東南アジア中国
 日本人漂流民と出会い
  ヨハネ伝

 異国船打ち払いで

 その頃 ヘボン 医大 1841 26歳 
 中国へ マラリア 断念 帰国後ニューヨーク 成功

 come here to help us

日本開国 宣教医として 
 
 1858秋 神奈川上陸 成仏寺
  無料で病気の治療 日本の風習と言葉を学んだ

 性病が多かった

 横浜外国人居留地へ 妻英語塾
  医学数学地理歴史「ヘボン塾」
  明治学院大学 フェリス女学院

 まず和英辞典 7年7か月 日本初の

 ブラウンらと共に福音書翻訳

m6 禁令高札撤去

  新約全体の翻訳へ

 奥野昌綱 手伝う サムライ・クリスチャン

 1876 小川よしやす共に 按手礼で牧師 初の

1880 文語訳聖書完成 

  一時、リュウマチで帰国が、再来日

1887 大晦日 新旧約聖書完成

妻の病気のため帰国
 
1991 96歳 
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シク教についての簡単な説明. Sikhi explained in Japanese [映像]

(2015日)
5番目に大きい宗教のようです。
大阪へ留学されていたそうで、
日本語でがんばって説明して下さいました。


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あなたの知らない世界史『ロシアの怪人ラスプーチン』 [映像]

(2010米)

ロシア公文書の中に、事件直後の写真があった。

犯人は、ロシア帝国貴族のユスポフ。事件から10年を経て証言を公開したようだ。

中庭に積もった雪に血痕の写真
川から引き揚げられた直後の写真
殺害直後の生々しい写真

が、法病理学と弾道学からユスポフの証言とは一致しなかった。

ユスポフはオックスフォードに留学していたが、
そこでの友人が、イギリス諜報部員となり、ロシアの軍服を着ることとなっていた。

写真からは遊び人には見えなかったですね。
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彼は妻を捨てて信仰に走るという、釈迦のような不道徳をやらかし、特殊能力を得た。
さらに、貴族社会で不倫に走ったようだ。
こういうことを神さまがお喜びになるはずがない。

このラスプーチンを皇帝夫妻は重宝し国を傾かせた。
カトリック国であれ正教国であれ、乱れれば神様は滅ぼしにかかられる。

そして、ヘブライ語聖書に度々記されてるがごとく、
完全に滅ぼされることなく、残りの者に復活させる。
まさに、聖書の実現のようなことが起こっている。
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ユダヤ人に取ってイエスとは? [映像]

イエスをメシアと認めないユダヤ人なので、
皆、似たり寄ったりの評価だと思ってましたが。
概ねは予想範囲内でした。

最後の人は、隣人愛と平和を主張した立派な人だと本心で思っているようだ。
真面目な肯定的表現だったので、人の考えは違いがあると改めて確認しました。

「へぇ~」と思えてよかったです。



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その時歴史が動いた 怒れる民よ、信長を討て! 〜浅井長政 逆襲の京都包囲作戦〜 [映像]

(2008日)浅井長政一代記。
1545年に久政の子として生まれるが、六角の風下となっており家中不満だった。
16で六角に反旗を翻し、勝利する。そして父を隠居に追い込んだ。

一方、尾張の信長は、美濃に野心があり、将来の上洛を睨むにせよ、
浅井との同盟は望ましく、妹のお市を嫁がせるに長政は立派な青年だった。

が、信長が朝倉を上洛させて配下にしようと企んだのを朝倉が拒否したのを機に、
徳川と朝倉攻めに入った。

浅井と織田の同盟関係を結ぶ際の約束違反でもあり、
長政は信長を討つことにした。この金ヶ崎の戦が、信長最大のピンチで、
ここで逃がさなければ、歴史は全く違っていた。

その後、当然に戦となる。浅井・朝倉 x 織田・徳川の野戦となる。
この姉川の戦いで敗れた浅井は北近江に籠るが、
地の利と善政で領民に慕われていた浅井はここから反撃をすることができた。

「信長包囲網」を形成していく。延暦寺や石山本願寺を味方につける。
が、信長は「勅命講和」を使って長政と終戦とさせながら延暦寺を焼き討ち。

そして、東で武田信玄が死ぬことで、織田・徳川は朝倉を討つ余裕ができ
ここに浅井長政は完全に包囲されることとなった。

再三の降伏勧告を拒否。
恐らく妻子に生きることを命じ、長政は自害した。

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長政の3歳上の姉京極マリアが京極高吉に嫁いだ。
が、1560年に六角側で長政と争うこととなり北近江の領地を失っている。
その後に信長に子どもを人質にだしている。

1581年に夫婦で洗礼を受けているが、信長全盛期でした。
1587年の秀吉の追放令を超えても、子どもたちに受洗させている。

戦国時代で救いを求めるなら、当時なら1択でしょう。

マリアは登場しませんが、
関連動画は皆無に近いでしょうから、彼らの心境理解の補助となるでしょう。
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浅井長政・京都包囲作戦・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus

ザ・プロファイラー 狼のように激しく 草原のように優しく チンギス・ハン [映像]

(2014日)後に皇帝となるテムジン(本名)は誇り高く、少年期に食料を奪われたという理由で異母兄弟を殺した。
それが、公正という正義と、許せない人間への残虐性という二面性を持つ人格となった決定的事件だったのでしょう。

父が殺され、一家は苦労することとなる。
やがて、彼が大人となりリーダーとなり群れを率いることとなるが、
生計の基本は羊や牛馬の遊牧生活で、肉と乳で栄養を得るが、
他集団を襲って、食料や衣服を奪うことも、当時は当然だったようだ。

彼は、服従する者には寛大だったが、抵抗する者には不必要に残虐だった。

彼の一代記でしたが、土地に根を下ろした農耕を基盤とする国からしたら、
最悪の野蛮人でしょう。

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16世紀ロシアの雷帝の頃の宮廷の3分の1が、蒙古の血を引いていたようだ。

スラブのロシア正教の顔もあれば、モンゴルのハンだった血の流れも
現在も濃く継がれているのでしょう。
昔話として見るべきではないでしょうね。

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Pファイラー チンギスハン20141001 投稿者 okura1919ppp

その時歴史が動いた 新聞誕生 〜幕末・ジョセフ彦の挑戦〜 [映像]

(2006日)両親を失った彦太郎は13で義父の船で海に出るも難破し、
アメリカの商船に助けられカリフォルニアで育つこととなった。

良い家庭に預けられ5年間教育を受け、カトリックの洗礼も受けた。
日本に戻れば捕まるので、アメリカ国籍を取得。日本人第1号だった。

彼は第15代米大統領のブキャナンと後に次のリンカーンとも会う。

1859年に駐日公使のハリスに採用され神奈川領事館通訳となった。
彼は外国人だったので居留地の外に出ることができず故郷に帰れなかった。

彼は諸外国の「事実」を日本人に伝える必要を自分の義務と考えたのでしょう。
日本の瓦版では到達していなかったレベルの「新聞誌」を発行した。
福沢諭吉も読んでいた。

「新聞の父」となった。

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神さまは、彦太郎の遭難とアメリカ商船を引き合わせ、助けた。
カリフォルニアで裕福な家庭で育てさせ、洗礼に至らせた。

そして、日系アメリカ人として日本に新聞を持ち込ませた。
通訳や事業は生計目的だろうが、「新聞誌」は採算を超えた使命感でしょう。


神さまは、精霊として個々人に働きかけられるのは、
宗教宗派を超えられるということでしょう。

「救い」が与えられるのは、所属教団で決まるのではない。
カトリックで救われる人もいれば、救われない人もいる。
それは他も同じでしょう。

いろいろな人がいるが、私が彦と同じ船に13で乗ってたら、
どうなってたのでしょうね。
英語で躓き、悲惨だったやもしれません。

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