So-net無料ブログ作成
マルコ伝 ブログトップ
前の10件 | -

第16章 1-20 イエスの復活と昇天 [マルコ伝]

9節より、[結び一][結び二]と二パターンの終わり方が与えられている。
9節から別人が挿入したと一般に考えられているようだが、
挿入者も、誤魔化す意図はないようで、わざとらしく、足している。

マグダラのマリヤの行動が、8節では墓から逃げて終わりなのに対し、
9節でイエスはこのマリヤにまず現れたと記している。

この堂々たる矛盾で、挿入者は「あえて入れました」と伝えているのだろう。
理由は、諸説あるのだろうが、「終わり方にしては物足りないだろ」と思ったのかもしれない。

[結び二]
----
〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕
----

これがマルコの結びなのか、これも別人が挿入したのかは分からないが、
マルコが詳細に回想録を残すタイプではなかったということのようだ。
いずれにせよ、貴重な記録であることは間違いない。


何度も書きますが、1つ読み終えるとしみじみとなるものです。


第15章 1-47 シモンの光栄 [マルコ伝]

第15章にて、イエスはピラトに引き渡され、十字架上で他界する。
イエスはゴルゴダの丘へ自ら十字架を背負って歩いていたところに、
シモンという男性が現れたのが21節。

21
----
A certain man from Cyrene, Simon, the father of Alexander and Rufus, was passing by on his way in from the country, and they forced him to carry the cross.
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
----

黒崎註解
----
少なくともシモンは主イエスの十字架を負うの光栄を持つことができたのは兵卒に強いられたからであった。強いて十字架を負わしめらるることは苦痛ではあるが幸福である。
----

ここで、黒崎は使った単語は「光栄」「幸福」だった。
恐らく、シモンがイエスの十字架を負ったことは、この時から「光栄」なことであり「幸福」なことであったのだろう。
2000年弱の間、この感覚を共有していた人が無数にいたのに、

こう考え感じるまでに、私は、どれだけの時間がかかったのでしょう。
聖書を読む機会も時間もあったのにもかかわらず、今になっています。


第14章 32-72 父の御意 [マルコ伝]

最後の晩餐の後、ゲツセマネというところでイエスは祈る。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人のみを連れている。

イエスは、逃げることが可能であることを承知しているが、
自分がメシアであることの聖書での予言にあるごとく神の意思に従うこと、
神と人を愛するが故、人類の罪を贖うために死を受け入れている。

しかし、死を前にして、弟子が逃げたり、自分を「知らない」と言うこともわかっていたため、哀しく寂しい気持ちであったことは私たちの想像以上のものだろう。

34
----
"My soul is overwhelmed with sorrow to the point of death," he said to them. "Stay here and keep watch."
彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
----

イエスの命令ではあるが、心からのお願いだろう。
しかし弟子たちは、眠りこける。


35
----
Going a little farther, he fell to the ground and prayed that if possible the hour might pass from him.
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
----

「the hour」=「贖罪の死」

「可能ならば、贖罪の死以外の方法があるのなら、神さま、お願いします。」

ということなのだろう。
イエスも自分の死で、福音を弟子たちが語り継ぎ人類の罪が贖われることで磔刑も覚悟するが、人間としてやはり他の手段で可能ならば苦痛は受けたくないのは当然だろう。

そんな気持ちを弟子たちは知らずに眠りこけ、それも含めて後に弟子たちの胸の張り裂けんイエスへの申し訳ない気持ちとなったのだろう。

36
----
<"Abba>, Father," he said, "everything is possible for you. Take this cup from me. Yet not what I will, but what you will."
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
----

杯=苦杯 

逃げることも可能ではあるが、それでもイエスは神に服す。

「それが神の意思であるならば、どうしようもない」

ということなのだろう。

第14章 1-31 主の晩餐 [マルコ伝]

22
----
While they were eating, Jesus took bread, gave thanks and broke it, and gave it to his disciples, saying, "Take it; this is my body."
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
----

23
----
Then he took the cup, gave thanks and offered it to them, and they all drank from it.
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
----

24
----
"This is my blood of the covenant, which is poured out for many," he said to them.
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
----

人には忘れられない聖餐式があるのだろう。
私の方が先に他界するでしょうが、その前にまたお願いしたいですね。

第13章 1-37 親の心子知らず [マルコ伝]

32
----
"No one knows about that day or hour, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father.
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
----

イエスが再臨の日のことを弟子に言う。

ここで、「子も知らない」となっているのがキリスト論の重大問題だそうだ。
イエスが神なら全知と矛盾する。

イエスは神の子であって肉体を持つ存在として生を受けたので、
キリストの神性と人としてのイエスという2つの存在であった。

したがって全知全能ではない肉の存在故に矛盾とはならない。


この辺りは神学なのでしょうが、分厚い本で難しいのかもしれません。
まだまだ手を出すには早いのでしょうね。

第12章 1-44 most important? [マルコ伝]

イエスはイスラエルにて、「最も大切な掟は何か」と律法学者に問われる。
律法は365条の禁止と248条の命令だそうだ。

29-31
-----
"The most important one," answered Jesus, "is this: `Hear, O Israel, the Lord our God, the Lord is one. Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength.'
The second is this: `Love your neighbor as yourself.' There is no commandment greater than these."
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
-----

唯一神と隣人への愛である。
モーセの十戒の対神関係と対人関係の2箇所で信仰と道徳で二つにして一つと、
黒崎幸吉は解説する。

黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マルコ伝
http://stonepillow.dee.cc/kurosaki_frame.cgi?41+12+6-1-5


正教会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合

1 主が唯一の神であること
2 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3 神の名をみだりに唱えてはならないこと
4 安息日を守ること
5 父母を敬うこと
6 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7 姦淫をしてはいけないこと
8 盗んではいけないこと
9 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
10 隣人の家をむさぼってはいけないこと

カトリック教会・ルーテル教会の場合


1 わたしのほかに神があってはならない。
2 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4 あなたの父母を敬え。
5 殺してはならない。
6 姦淫してはならない。
7 盗んではならない。
8 隣人に関して偽証してはならない。
9 隣人の妻を欲してはならない。
10 隣人の財産を欲してはならない。


正教会は隣人の妻と財産をセットにして、偶像崇拝の禁止を加えたということなのだろう。

いずれにせよ、イエスは明快に答えた。

第11章 1-33 殺せるんだよ [マルコ伝]

この章から受難週が始まる。

・エルサレムに入る前にロバの借用
・無花果の木を呪いで枯らす。
・神殿内での商売人を追い出す
・パリサイや祭司長に「何の権威でするのか」聞かれヨハネの件で切り返す。

と、マタイ伝と同内容であるが、細かいところで違いはあるようだ。

21-23
-----
Peter remembered and said to Jesus, "Rabbi, look! The fig tree you cursed has withered!"
"Have faith in God," Jesus answered."I tell you the truth, if anyone says to this mountain, `Go, throw yourself into the sea,' and does not doubt in his heart but believes that what he says will happen, it will be done for him.
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。」 「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
-----

いちじくの木を枯らすようイエスが呪った翌日の会話。

前日のイエスが空腹を覚えイチジクの木に近づいたが実がなかったので腹いせに呪ったかであったが、
弟子の報告に対して、「信じれば何でもできる」と応える。
これは暗に「むろん、いちじくだけではなく人をも殺せるんだよ。やらないがね」と言っているのだろう。

この会話からもイエスの「ふふふ」という笑いがあるように感じますね。
単純に善人と捉えるのは甘いのでしょうね。

第10章 1-52 迫害 [マルコ伝]

29-30
-----
"I tell you the truth," Jesus replied, "no one who has left home or brothers or sisters or mother or father or children or fields for me and the gospel
will fail to receive a hundred times as much in this present age (homes, brothers, sisters, mothers, children and fields--and with them, persecutions) and in the age to come, eternal life.
イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
-----

日本語訳では、「迫害も受けるが」が先にきて、心の準備をさせているが、
英文では、最後の方に取って付けたように、「persecutions」が来る。
イエスの話し方は、日本語訳では丁寧ですが、
実際は、「迫害もあるけどね、、、ふふふ。」といった皮肉のような気もするのですが、
どう思われますか?


第9章 1-50 イエスの苦笑? [マルコ伝]

22-23
-----
"It has often thrown him into fire or water to kill him. But if you can do anything, take pity on us and help us."
"`If you can'?" said Jesus. "Everything is possible for him who believes."
霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
-----

霊に取り付かれた息子を助けて欲しい父親であったが、半信半疑だった。
それに対して、イエスは、"`If you can'?"と言う。

どういうニュアンスなのだろう。
半ギレ、落胆、半笑い。
私は、「この神の子である私にできないワケないであろう」という苦笑だと思いますが。

この部分で違う解釈をご存知なら教えてください。


38-40
-----
"Teacher," said John, "we saw a man driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us."
"Do not stop him," Jesus said. "No one who does a miracle in my name can in the next moment say anything bad about me,
for whoever is not against us is for us.
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
-----

これは、常識的には疑問ですね。
能力的に同等以上ならともかく、必ず失敗する治療がでてきて評判を落とすでしょう。

それも織り込み済みで許したのでしょうから、
彼の失敗した後の後始末も含めて彼の善意を信じたということなのでしょう。

なかなかそう寛大には人間なれないものでしょう。
私なら成りすましは生理的に受け付けないと思いますね。

第8章 1-38 恥じる者 [マルコ伝]

38
----
If anyone is ashamed of me and my words in this adulterous and sinful generation, the Son of Man will be ashamed of him when he comes in his Father's glory with the holy angels."
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
----

私を含め日本人の多くは、家に仏壇があっての出生がデフォルトだろう。
だから、自称仏教徒をも理解できる。
自称というのは単に家のシキタリを引き継いできたのだろうという意味である。
それはそれでも立派な人もいるということも理解できる。

私が解せないのが、ミッション系スクールに通ったものの
自然崇拝で反リベラルなケースが理解できない。いいのですが落ち着きがない。

弟子がイエスのワザを見て、「Who is this?」と言ったが、そんな感じだ。
日本語訳では、「いったい、この方はどなたなのだろう」らしいが、
むろん、そうではない。
「何やねん。こいつ?」ではある。

まぁ、仏壇神棚に拝む習慣もないため、落ち着きが無いのだろう。
だから状況依存的な言説になる。
38節そのものだが、もはや本人の感性には響かなくなっているのだろう。

黒埼の註解そのものだろう。
-----
註解: この世において今の時代に、その不義と罪悪との生活に調子を合せていくことは極めて容易であり、反対に主イエスを信じその御言を守る者はこの世の人々より偏屈、固陋、潔癖として排斥せられ辱めらるる運命に置かれている。それ故に極めて強き決心をもってイエスに従うにあらざれば、人はこの侮辱にたえることができない。イエスすらこの辱しめを受け給うた。況してその弟子をや。この侮辱にたえ得ずして福音を恥とする者は(ロマ1:16)、世の終りにおいてイエスが世を審(さば)かんがために再び来り給う時、イエスは彼を見ることを恥とし給うであろう。
http://stonepillow.dee.cc/kurosaki_frame.cgi?41+8+4
-----
前の10件 | - マルコ伝 ブログトップ